はじめに・・・ この文章は平成5年、38歳の時に書いたものです。仕事に明け暮れて自分が一体何をしているのかも分からないような日々、母親の死をきっかけに「こりゃあ、ちょっと人生一休みだな!!」という判断の下、15年余り勤めていた会社をやめ自由を得たというわけです。で、せっかく自由になったのだから、若い頃に、思いついても実行に移せなかった「気ままな旅」のようなことがしたくなって、自転車で鳴門へと・・・。ところどころに出てくるスネた感じは前の仕事時代の余韻を引きずってる。世をスネれたなんて僕ってすごい!!まぁ、今はちゃんと言葉になっている『自分探しの旅』ってやつです。今も続いているような気がします。 |
高知--鳴門 3日旅
1日目 高知を出発 「行く!!」と言ったから出発。先は見えない。今にも降り出しそうな空。でも大丈夫だろう。僕は何かに守られている。却って暑くなくていい位だろう。バッグを荷台にくくりつけている以外、南国か手結辺りまでは、普段の思いつきの遠乗りとさほど変わりはしない。会社をやめた頃からこの二ヶ月あまり、何かの度に「放浪の旅に出る」、「まずは試みに自転車で徳島へ行く」、「その次は四国一周」、「その先は徒歩で目的のない旅へ」などと大きいことを言ってきた。しかし、小さな約束事が次々と出来、なかなかまとまった日が出来ない。歯医者、アルバイト etc...。 5月18日、ひょんなことから日帰りで福岡までのバス旅行をした。24時間座りっぱなしの旅、休憩のドライヴインで買った道路マップ。高知--鳴門、高知--鳴門...250キロ程度。時速30キロ位で走れば8〜9時間。行ける行ける。よしっ、行こう。出来ても出来なくても一度出発してみないと、今のままじゃ何もしないままになってしまう。とにかく出発してみなくては...。 5月24日、11:30 自宅を出、高知市街を抜ける。ちょうど昼時、勤め人の食事の行き帰りで歩道が混んでいる。僕が嫌いな人ごみ。約束事と時間と人の目に縛られた、自由の利かない生活。いやいや、みんな仕事で上手に時間をつぶして収入を得、多すぎず少なすぎずの適度な自分の時間を利口にエンジョイしているんだ。上手にやれなかった下手くそはお前だけさ。せめて自由人の振りをしよう。サングラスをかける。ウォークマンのヘッドフォンをつける。道中長い、まずはFMでも聞きながら...。リズムに合わせて体を揺ってペダルを踏む。感度良好、空模様だけが気にかかる。時々小さな粒が顔に当たる。なぁに大丈夫さ、僕は守られてるんだ。 この9年間、ずっとランニングをしているから、筋肉の疲労は心配していない。高知--手結間を往復したことだってある。もっとも、帰りは這うような状況だったが...。一度出かけたら帰らなきゃいけない。一度生れて来たら必ず死ななきゃならないのとどこか似てるなぁ。 南国のはずれ辺りからFMの入りが悪い。雑音交じりの放送を聞きながら先へ先へ。野市を過ぎ、赤岡を過ぎ、手結山を越えて一休み。サイクリング客相手の宿泊施設があった。シーズンがいつなのか、シーズンには一杯になるのかも分からないが、今がシーズンオフなのは間違いない。ガラガラだった。事務員の若い女の子が一人。ここいらから室戸方向にあるらしい自転車道のことを尋ねたが、こちらが、目印になるうどん屋の名前とかを知らないので、全く話にならない。言葉はきれいだが愛想のない事務員さん。こんなにヒマでやることあるのかなぁ?
安芸の町を行くと大きな公園があった。一休み。岩崎弥太郎の銅像。「龍馬が行く」では、龍馬に因む人たちの内の一人、歴史上の一人物だったが、この町では大先生だ。そりゃあそうだろうな、どの町も誇りに出来る誰かや何かが必要なんだ。 室戸までの道は長かった。誰かの車に乗せてもらって来たことはあるが、景色や距離感が記憶にない。ビワの木が、海岸近くまでせり寄った山に生えているのを見て、そろそろかなと思ったが、似たような景色が延々と続く。結局、室戸の市街地はおもいっきり岬寄りにあった。着いたのが17:00. 室戸には親戚があり、ちょっと寄ってコーヒーを飲ませてもらった。明日鳴門に着くには、もう少し近づいていた方がいい。日のある内は走り続けることにした。トンネルを抜けて、扇形をした室戸半島の反対側へ。海岸の様子が違う。室戸に近づくにつれてそうなのだが、岩の感じがゴツゴツして、長崎の島原半島の海岸沿いを走っているような気分になる。ここら辺の人はやっぱり土佐弁を使っているのかな? 車の量も少なく人気もない。この道の途中で暗くなったらどうなるんだろう。どこかで何か食べとかなきゃ。民宿の看板は掲げてあるが明らかに閉めている家。喫茶店があっても定休日。そんなところばかりが続いて、とうとう人家もとぎれた。ちょっとした坂、ちょっとした下り、それの連続。日も暮れて来た。海岸沿いの景色は綺麗だが、知らない土地、限られた時間に気が取られて楽しめない。夫婦岩があったっけ?東洋町も通ったなぁ。ここもまだ高知県なんだ。どれだけ走ったら徳島県なんだ?このまま夜通し走ったら徳島市に行き着いてしまうかなぁ...? 甲浦に着いた。休憩。確かフェリーが来てるところだよな。ここは高知?徳島?日はもう沈んでいる。ペダルが重い。 国道は車が通り過ぎる為の道路らしい。町のはずれを通り抜けるから店も少ない、人気もない。車道の舗装はちゃんとされていても、歩道はガタガタだ。さすがにこれだけ走って来ると、一つ一つのでこぼこがハンドルを握る手に、サドルに当たる骨にひびく。車道を走ると、体すれすれに車が風をまきながら走って行く。ペダルが重すぎてライトをつける気になれない。そろそろ今日は打ち切りだ。次の町で宿を探そう。
坂の上にモーテルがあった。モーテルはいやだ。通り越す。これで良かったのか?この先すぐに町はあるのか?迷いながら前へ前へ。道路沿いのライトが暗く、車道と歩道の段差が分かりにくい。その側をすごいスピードで追い越して行く車。ダメだ。次はなんでもいい、宿があったらそこに泊まろう。 20:00過ぎ、国道沿いにあった看板を見て宿をとった。海部町。国道から海側に100m入った、小さな町の小さな商店街。当然どこも閉まっている。看板にあった旅館と、その前にコンクリート造りの旅館が向かい合っている。看板の旅館は古い木造。2〜30年前には上宿だったんだろうけど今では...。新しい方をと思い声をかけたが、子供の泣き声がし、つきあたりの廊下をおばさんがあわてて横切っていった。こちらの声には気がつかない。ダメだこりゃ、古い方の宿にした。次から次に部屋を足してどんどん大きくなったような、昔風の古びた旅館。小柄なおばさんが出て来た。ちょっとゆがんだ視線、重心を右にかけたゆがんだ姿勢でこちらを見上げて「なに?」、愛想が悪い。 その愛想の悪い、分かりにくい喋り方の、しょうがないおばさんが、しばらくするとおにぎりを持って来てくれた。アレアレ...ありがとう。でも、前金で宿代を取っていったけど本当にこの宿の人かなぁ?まぁいいや、メシだ、家に電話だ、フロだ。 明日訪ねる増田さんにも電話。やめた会社時代に、家の玄関に置く大きな置時計を買ってもらい、いつか家に据え付けた状態を見に行くと約束していたのだが、仕事をしている間は時間が取れないでいたのだ。そうそう、増田家の麻子、潤子姉妹は大学時代からの僕の大切な友人だ。突然な上に自転車で行くという無茶な話に、受話器の向こうからお母さんの戸惑いが伝わってくる。今、家にいる潤子さんは風邪気味で寝てるというし、明日は明日で予定があるらしい。こりゃあ迷惑かけるなぁ。無鉄砲だなぁ、馬鹿だなぁ。でも、ここまで来てしまったし、行きつけるかどうかも分からなかったし、今やっと行きつけそうな計算になったんです。ごめんなさい、電話を切ったあとで心の中で謝った。 2日目 目的地到着 翌朝は、6:20に海部町を出た。あのおばさんは宿の人だった。おにぎりのお礼を言うと、ゆがんだ視線とゆがんだ姿勢でぎこちなく笑った。海部町は綺麗な海岸線の静かな町だった。 知らない土地を初めての町へ向かって一人で進む。昨日の反省、感想。サイリングは明るい内!お前はちっぽけで、どこの誰かも分からない弱い弱い存在だ。この町々が、自分にとって何の関係もない意識外の場所だったということが、今お前にはね返って来ているんだ。お前はよそ者だ、気を付けて行け。 海辺の道は走りやすい。坂があってもゆるいし、その分下りもある。ところが、牟岐町から日和佐町に至る山越えはきつかった。急な上り、急な下り。上りは果てしなく長く感じ、ペダルの一踏みが次の一踏みにつながるか分からない。ゆるい坂が時々あると、錯覚で上り下りを間違えて、ギヤを逆に使ってしまう。この坂は下りなのにどうしてこんなに重いんだ?実は上り...。 道路標識の『徳島まで○○km、○○町まで○○km』が恨めしい。牟岐町の中頃で一休み。タバコとジュースの自動販売機が並んでいる理想的な店先でマイルドセブンとジュースを買う。このごく普通な組み合わせが、何十キロ走ってもなかなかない。これも国道沿いのせい? 日和佐町には8:00頃着いた。小学生たちが通学している姿。我が家の子供たちも出掛ける頃。山越えの後の安堵感も手伝って家に電話。今いる場所を伝えると、地図を見て、徳島、鳴門への道を説明してくれた。もう、きつい山越えはないようだ。どこの誰か分からない自分も家に電話をすると、自分が、高知に家族を持つ宮城という人間だということが分かる。 暑い。今日は暑い。道路標識で残りの距離、到着時間を計算しながら先へ先へ。変わった町名が多いなぁ。漢字の読み方も予想外。『河内』の付く地名はどこにもあるんだ。長崎では『西の河内』と書いて『ニシノコウチ』、高知では鏡村に『大河内』と書いて『オオゴチ』と読むところがある。徳島では『ガワウチ』と振ってある。天神という地名もどこにでもある。天に神か...ふんふん...。 11:10、小松島、うどんを食べた。何故か月見がない。牛どんがおいしそうだった。コーヒーもメニューになかった。全体に安い。高知が高いのかな? 徳島から鳴門へ、土地感がないので、すぐ近くに来ている筈なのに不安でたまらない。今までは田舎道を国道55号線沿いにひたすら走って来たが、次は何号線なんだ?徳島の市街地をこの国道は通っているのか?逆方向じゃないだろうな。いや、そんな筈はない。昨日今日の旅(?)で方向感覚が鋭くなって、東西南北は確信を持っている。まぁいい、前へ行って見よう。 あった。『高松・鳴門』の標識。そうか,鳴門は徳島から高松に行く途中にあるんだ。エッ?地図でもそうだったかなぁ?まぁいいや、鳴門には行ける。鳴門に着いてから増田さんのブヨウ町は遠いのか?鳴門の広さは?中心街から又何時間もかかるんじゃないだろうなぁ。近づく程に次の不安、自分が心配性なのは今度のことでよく分かった。 14:00前に鳴門警察署前に出た。国道11号線を走って行く内に、サイクリングロードの看板に誘導されて28号線に迷い込み、標識を頼りにここまでたどり着いた。僕は警察署は大好き。親が警察官だったのでなじみが深い。善良な市民として出入りすれば非常に心地よい。冷たい水があったり、道案内も要を得ていて、さすが警察官!!ブヨウ町はすぐ近くだった。そこで増田家へ電話。この近くに鳴門駅があり、その辺りにはビジネスホテルもあるとのこと。じゃあ宿をとって汗を流してタクシーで行こう。ホテルを探すまでの道路標識で、『ブヨウチョウ』は実は『ムヤチョウ』だと分かった。あぁ、はずかしい!! タクシーで増田家へ。岡崎保育園の隣。大きい、こりゃテイタクだ。増田姉妹はこんな良家の子女だったんだ。しつけが厳しくて結構な箱入りなのは知っていたけどヘェ〜〜ッ!!潤子さんは予定を変更して待っていてくれた。予定というのはテニス、ホラやっぱり良家の子女だ。 無鉄砲で図々しい唐突な訪問に、増田家の人々は非常に温かく接してくれた。鳴門のこと、徳島のこと、増田家のことを話してくれ、途中からはお父さんも帰って来られ、車で近所を一回りしてくれた。(本当にありがとうございました。)とんでもない強行軍で、観光のことなんか微塵もなく、ただ増田家に行き着けば良しとする旅だったが、お陰で鳴門というところが身近になった。少なくとも駅前周辺と岡崎海岸辺りは大分頭に入ったゾ! 夕飯をごちそうになり、帰りはお父さんと潤子さんがホテルの側まで送ってくれた。潤子さんは、18歳の頃と同じ仕草で手を振ってくれた。あの頃、ぼくは大学を出たばかりだったから、潤子さんの年は...まっいいか。全然変わってないなぁ。 3日目 高知へ 翌日は6:40に出発。増田家のお父さんと潤子さんが、地図をコピーし、道の要点要点を細かく説明してくれたので心強い。元来た道を帰るつもりだったが、池田回りで帰ることにした。 昨日の反省と感想。増田家への感謝の一言に尽きる、後はなし。僕は高知から来た宮城という人間だ。 一時間ぐらい走ると、88ヶ所巡りの一番、霊山寺の前を通った。重々しい何とも言えないたたずまい。僕はご利益願いのもの欲しげな信心には一切興味がないが、あのたたずまいには魅力がある。きっと昔からの人々の様々な想いが集まってあんな寺院が一つ二つと出来ていったんだろう。その人々の想いは...?いつか歩いて88ヶ所を巡りたい気持になった。一人一人を捉えればちっぽけな人間の何が、こんな大きな寺院を作らせたのか、何が本当の人間の幸せなのか、感じ取れるかも知れない。 相変わらず、車道と歩道の格差は激しい。車道はきちんと整備されていても、歩道はガタガタだ。人間性無視だ!これじゃあみんな車に走ってしまう。歩いたり自転車で走ったりじゃ危なくてしょうがない。あの寺を作ったのも人間、車や船、飛行機、この道を作ったのも人間。すごいことだけど、気を付けないとな。身の危険もそうだけど感性の危険にも気を付けなくちゃ。 体を使って汗を流して、今日で三日目。昔の人はよく体を動かしたと聞く。今ほど便利じゃないから、生きるためには汗を流して動かないといけなかったんだ。今の世の中で一人だけ自分のことに必死でガツガツしている人は格好悪いけど、生きることに必死なのが当たり前だった時代には、もっと温かい空気が流れてたんじゃないかな。
変化は小歩危で起きた。急に全身の力が抜け、踏んでも踏んでも先へ進まない。下り坂なのに...。自転車を下りた。押して歩く。一歩一歩が定まらない。力が出ない。休憩。ちょっとした上り坂を越えて、自転車にまたがり、下りの勢いで先へ進む。坂がゆるくなりペダルを踏む。力が出ない。下り坂なのに...。下りる。押す。歩く一歩がおぼつかない。全身の力が抜けている。足がもつれる。頭がフラフラする、もう倒れる。左手に『城山町・公共の宿』の看板と建物。ここで休んで治らなかったらこのまま泊まろう。熱射病?体力の限界?分からない。とにかくエネルギーの補給と休憩だ。 何年か前、娘の夕(ゆう)と自転車で桂浜へ行った。夕は小学2年の終り、これから3年生になろうとしている時。桂浜往復にはとても無理な体力だったが判断がつかず、どうしても行きたいという言葉に妥協して連れて行った。桂浜で遊んでいて夕は寄せ波の中で転んでずぶ濡れになった。まだ風は冬のなごりがあった。夕は自分が桂浜行きを言い出したこともあって最初は平気そうな顔をしていたが、帰り道でとうとう泣き出した。使い果たした力、ずぶ濡れの体、冷たい風、暮れて行く空、とにかく早く帰り着かなければ。僕は怒鳴りつけた。 「メソメソ泣くな、自分が言い出したんだろう、ここに置いて行くぞ。」気を張らして頑張り抜かせるしかないという気持ちと自分自身のイライラも込めていぎたなく怒鳴りつけた。あの時の夕の疲れはもしかしてこんな疲れだったのか?だとしたらそれを叱りつけられた時の夕の気持は...?そう言えば、家の近くまで帰り着き、温かいものをとらせようと飲み物を買いにスーパーに寄った時、自転車の乗り降りに夕の足はもつれ、倒れそうになった。その時も僕は一瞬イライラした顔をした。ゴメンよ、夕。僕も頑張るからな。 ソバとコーヒーを頼み水を二杯飲み干してゆっくりと電話をかけに行った。歩くのがやっとだ。寒気がする。誰かいるよな。夕が出た。電話が遠くてよく聞こえないらしい。女房が出たら、場合によってはここに泊まるというつもりだった。今一つ伝えたいことが伝わらない。 「よし、今日中に帰るからね。」 なんとしても帰り着こう。 長かった。30分おきに休憩、ユラユラと進む。日が暮れて行く。ジュースを何本も飲んだ。栄養補給だ。体力は限界まで来ている。この、山と山に挟まれてその間を川が走る風景からとにかく逃げ出したい。1960mもある大豊のトンネル、一段上がった自転車道は1m幅。暗い、見えない。体スレスレのところを大きなトラックが猛スピードで追い越して行く。道が狭いから自転車を避けるような運転も出来ないし、気付いてないのかも知れない。風に巻き込まれそうだ。ダイヤがスリップしてよろける。極度の緊張。トンネルを出た時には、よくぞ生きていたという思いだった。後で思ったのだが、いくら行政が歩道、自転車道に冷たくてもあんな思いをさせる訳がない。第一、反対側からもう一台自転車が来れば必ず事故になるのだから。きっと山添に迂回路があるはずだ。疲れ切った頭でその判断が出来なかった。 根曳峠の下りはうれしかった。ペダルを踏まずに7.2キロ先へ進める。下りたところは南国市。気力と体力が戻って来た。峠を一気に下りた勢いでそのまま高知へ。それまで一番軽いギヤでもユラユラ走っていたのが、出かけた時と同じような力でペダルを踏める。高知だ、あの道、この道、どれも知っている。19:00過ぎ、帯屋町のアーケードを走る。勤めを終わり家路を急ぐ人達。お疲れ様の気持ち。出かける時とはちょっと違ってるなオレ...。
あとがき 高知に入ってから気がついたのだが、我が12段変速自転車の後輪のギヤは2段しか動いていなかった。素人はこわい。とにかく出発してみなければという思いで出たのだから、それはそれで勉強になったのだが、まぁ素人は無茶だ。 |