2003年、2月20日、父が亡くなりました。いろいろ思うところもあって、文を残すことにしました。文というか手紙だね。自分の年は関係なしに息子から亡くなったた父へ、「ありがとう」の気持ちをこめて・・・。

 

父ちゃん・・・


  85年の長い人生お疲れ様。長いけどあっという間だったんだろうね。僕の48年だって長いけどあっという間で、物心ついた頃から後はみんな昨日みたいだもんな。

 その間にいろんなことがあったんだろうね。僕に分るのはもちろん僕が生れてからのこと。僕が生れたために母ちゃんは72歳で死んでしまうまでリウマチの痛みと自由に動けないこととの戦いの日々だった。それでも、自分のことよりよそで同じ病気で苦しんでいる人たちと文通をしたりしていつも人を励ます側に立っていた。そして、それを支えていたのが父ちゃんと長女の美恵子姉さんだった。警察官、それも「スコブル」付きのまじめで頑固で正義感の強い堅物の父ちゃんがその激務をこなしながら洗濯やらなにやら家事までこなして子供たちを育てた。母ちゃんの介護のために、昇進もあきらめ、一駐在所の警察官としての一生。さぼれば楽できるけどさぼらなかったらかなりの仕事になるのが駐在所勤務。父ちゃんはさぼらない人だったからな。だから、一度だけ巡回の予定の時間にフロに入っていて、そこへ上司の人が来て怒られたっていうのが笑い交じりの一生もんのエピソードになったりしていたっけ。

 まぁ、こんなふうに書いてしまえば二人とも立派な両親ということになるんだけど、そこは弱い人間、母ちゃんは母ちゃん、父ちゃんは父ちゃんで一人の人間として、おかれた環境、立場から結構ストレスをかかえ、苦しみの多い人生だったんだろうと思う。自分がその立場になればよく分かるけど、親っていうのは子供が見上げるような気持ちで見ている時の確固たる存在かと言えばそれは大間違い、いつも悩みいつも迷い失敗を繰り返しながら成長していく、子供と同じ立場の弱い人間だからな。 そんなあなたたちの弱さに僕は敏感な少年だったような気がする。とても優等生で無意識に期待に添うように行動していた。そして、父ちゃんもどこかいつもカリカリしている感じで、ワガママな僕にはちょっと窮屈だったな。自分で自分のための人生を味わいたいと思い出した頃から無理やりの親離れを決行した。なるべく遠くの大学を選び、仕送りを断って、そのかわり、自分のことは自分で決めなにもかも事後報告。その時でさえあなたたちを傷つけないように、怒らさないように気をつけていた自分が今ではおかしい気もする。

 僕の青春時代は自分としては主体性のない行き当たりばったりの、今でも自慢できない地味な時代だった。でも、はたからみれば波乱万丈の人騒がせな生き方。迷惑はかけたくないから勘当してくれと言ったら変に感心していたな。「おまえは人の何人分も生きてる」なんて。まじめで頑固で正義感の強い堅物の父ちゃん、実はそういう人生の機微がわかる人だった。

 そんな僕があなたたちを楽に受け入れれるようになったのは、やはり自分が親になって、親がそれほど偉いもんじゃないということ、同じ人間なのだと思うようになってからだと思う。そして、無条件にわが子がかわいくて笑っている自分に気がついて、これと同じ顔を父ちゃんが僕を見るときにしていたということに気がついた頃からかな?その頃には母ちゃんはいつ死んでもおかしくないころで、その前に聞かせたくて「言っておきたいこと」という歌を作った。結局その歌は母ちゃんには間に合わなかった。だから、タイトルは「言っておきたかったこと」になったんだ。あの歌、母ちゃんの葬式の後、父ちゃんにはテープを渡したけど聞いてくれたのかな?なんのコメントもくれなかったけど・・・。てれくさくて真面目な会話が上手に出来ないのが僕らの親子関係だったからいいんだけどね。

 僕の思い出で一番残っているのは、最後の会話です。いつだっただろう?父ちゃんは随分とボケも来ていて、僕が僕だと分っていなかった。僕を沖縄から来た僕のいとこたちの中の一人だと思い込んで、息子を相手に「ですます調」で話していた。

 父ちゃんも母ちゃんも沖縄生まれなのにどうして長崎だったのか?戦争が終わって引き揚げて来たら、もう沖縄はアメリカの占領下で帰れなかった。それで長崎の佐世保にいついて警察学校に入った。そしていくつかのエピソード。警察官になってあるとき鉄道の駅の改札口である男にいちゃもんをつけられた。その人は刑務所を出て来たばかりで、警察に対して不満をもっていた。自分は決して悪いとは思っていない。話を聞いたあとで父ちゃんは「あなたがいうことがそのとおりであるなら、それはそうなんだろう。それは私が謝ろう。しかし・・・・」というような会話をしたらしい。数年後、すっかり更正した彼が父ちゃんを訪ねてきて「あの時あんたに会わなかったら・・・」とそれを伝えたくてやって来たという。他にもいくつかのエピソードをした後のあなたの話の閉め方がかっこ良かったなぁ。「どこに行っても、何をしても、行き当たりばったりのじんしぇいですよ。」息子を相手にですます調でこの閉め方。

 最近、お年寄りの顔を見てその人の若い頃の顔が割とすんなりと想像できるようになっている。そしてその眼でみた遺影の父ちゃんの顔はまるで僕の顔だった。父ちゃんにも母ちゃんにも似てなくて、逆に予想できない可能性を感じて喜んでいたのになんだそっくりじゃないか。それに、人生での表に出方は違うけど、人に接する態度とかは結構あとをついでるな。父ちゃんがいよいよ定年退職で駐在所を離れる時、これから誰を頼りにしたらいいのかって泣いてすがってきた人たちがいた。僕も結構そんなところがあるんだよ。そしてなによりも、「行き当たりばったり」発言に助けられた。なんだ、行き当たりばったりって父ちゃんの遺伝だったんじゃないか。じゃあ、僕の人生も行き当たりばったりでしょうがないよなぁ。逆に喜んだっていいんだ。父ちゃんと同じじゃないかって。

 幼い時、あなたに手を引かれて歩いた夜道で見た星の輝きを覚えています。ほんとかうそか分らないけど、今見る星に比べるとほんとに色あざやかで青や赤や緑や黄色や色とりどりできれいだった。

 あなたの仕事についていって、腰まで埋もれてしまうように積もっていた雪の白さを覚えています。あまりの寒さで途中で寄った農家でもらったやぎのお乳。そんなこともおぼろに残っています。

 家の前で自転車ごと前の川に落ちた時、はだしで飛び出してきたあなたのことも。

 父ちゃんが寝ている側をそろりそろりと歩いているつもりが、起こしてしまって、いきなり足をたたかれた。そしてあなたはそのことに気がついて急に「ごめんごめん」と言いながら僕の足にほおずりしたっけ。僕はおどろいただけで全く傷ついても痛がってもいなかったのにね。

 子供時代に引越しばかり多くて、中学生の時なんかひと学年ごとに学校が違ってた。あとになってから、「あの時はかわいそうだった。」なんて言ってたなぁ。ちょっと遅いけどね。

 「よく生きる、ということは、死んだ後でも、人の心のよりどころになれる生き方」というような文句が浮かんで来ています。死んだ人に「守って下さい」なんて、酷な、勝手なことだと思ってたけど、今回はそんな気持ちがわかるようになった。ありがとう。

  どうもね、父ちゃんは僕の中に生きてるよ。大丈夫、まだまだ大丈夫です。