4月2日(金)

南国にて

 いつかは書きたいと思っていた我らが大道具の棟梁のこと。その名は刈谷義照氏。別の名を「司亭升楽」ともいった。

 18歳、僕が初めて親元を離れこの高知へやって来て、「自力で生きる」ということがやりたくて親の仕送りもことわって一人住まいを始めた時、ラジオは最良の慰みだった。まずは新聞を配りながらの自力生活だった。夕刊を配り終えてひとここちつく夕方の5時過ぎ、AMラジオから流れて来る番組のひとつに『司亭升楽の司寄席』というのがあった。その番組をはさんで藤圭子の番組と『小沢昭一の小沢昭一的ココロ』があったっんだ。

 他所の県から高知に来て、高知を感じるラジオ番組、それこそがこの夕方のどこか寂しさを感じさせる時間帯に流れる『司亭升楽の司寄席』だった。土佐弁で繰り広げられる土佐落語の世界。土佐落語なんていうとそういう伝統があるのかと思うだろうが、これは我らが棟梁刈谷義照氏一代の芸だ。

 そして、その司亭升楽さんと僕は20年後に会うことになった。大学時代に知り合った演劇畑の曽我氏。僕が所属していた「根無し草」というフォークグループのコンサートの舞台監督的な位置づけで僕の前に姿を現した。その曽我氏が僕の一度目の失業の時代に、人材不足の大道具の一員としてその世界へ僕を引っ張り込んだ。歌をやってたやつとか芝居をやってた人とか、オモテの空気を知っている人は裏にも向いていることが多い。そして、その曽我氏のお師匠が司亭升楽こと刈谷義照氏だった。

 高知ではそこそこ有名人だったから分かり易いように升楽の名前を出すが、刈谷義照氏の司亭升楽としての活動はほんの一面。彼は高知の歌舞伎や日本舞踊の大道具の棟梁だったのだ。

 何でも知っていて、基準がしっかりしていて、静かに指摘したり、時には怒ったり僕には怖い人だったなー。その棟梁も去年逝ってしまった。

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 今日は明日あさってと催される日本舞踊の会の準備のために大道具の荷積み作業。棟梁が亡くなって依頼初めて棟梁の家へ行った。主をなくした大道具を収納した小屋は南国平野の平たい吹きさらしの環境で随分と朽ち果てていた。10数年前僕はここで初めて棟梁と会ったんだ。あのラジオで聞いていたそのままのしゃべり方の、僕にとっての土佐の代表、司亭升楽さん。その時はその縁がここまでつづくとは思いもしなかった。いろんな経験の中のひとつとしてやってみるのもいいかなという感じだったんだ。

 こうやって、あそこでもない、ここでもないと、いくつもの小屋から道具をひっぱりだしているとフイに棟梁が現れて「オウやりゆうか」とでも言いそうだ。

 「宮城君はなんで高知におりゆう・・?」最初に会ったその日に棟梁は僕の名前をすぐさま覚えて昔から知っているように話してくれた。

 僕が病院勤めをしている時には、一年に一度の地域に向けた大きな行事で土佐落語をやってもらえないかと頼んだら、その頃は少しカラダも弱りしゃべりがハッキリしないから世話になってる生協病院でしかやらないことにしているといいつつも、特別に僕の病院で土佐落語をやってくれた。

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 そんなこんなが浮かびながらの荷積み作業。明日あさっては土佐山田だ。