2007年5月26日(土)
秋風の福井の里に妹をおきて安芸の大山越え勝てぬかも 雅澄
僕が以前住んでいたことがある福井町には鹿持神社というのがある。今から200年くらい前の人で万葉集の研究をした人とのこと。今でいう単身赴任で安芸の羽根に行った時、高知に残してきた妻のことを思って歌ったのが上の句。
車もなければアスファルトの道もない時代には今とは距離感が全然違っていたんだろうな。
この鹿持神社は小高い丘の上にあって、辺りを見回すと福井の町が見下ろせる。
もう、何十年も前、この丘に登って、『民の暮らしは満たされているだろうか?』などと辺りを見渡したことがある。
その時、気持ちのよい風が吹き抜けていって、僕はある悟りっぽい感覚に陥った。
ずっと昔、鹿持雅澄の頬を過ぎていった風も今僕の頬を過ぎていった風もきっと同じ風だったに違いない。
そして、それは200年前と言わずそれが昨日のことでも、なんにもおかしくはない。
時間というものはあるようで実は無いのだ。
200年前というのは実は昨日でもおかしくないし、ついさっきなのかも知れない。
「時は来て、時は行く」などと自分でも言ってるから、時間というものが全く無いと思っているわけではないが、その時から僕は時を越えれるようになった。
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で、今日は、その鹿持神社のすぐ近くでインターネット接続設定があって、NTTの営業の人が立ち会って、この方はいつも自分が申し込みを受けた人のところに最後の設定まで立ち会って、立派だなぁ・・と思ったという、話なんだけど・・・
アハハ。