2008年9月18日(木)

朋、遠方より電話

 谷病院から帰って来て、自分のパソコンの前に座った夕方、家の電話の呼び出し音が鳴った。

 「もしもし、宮城です。」

 相手の男性は少し遠慮がちに間をおきながらも、楽しそうに言った。

 「分かります?」

 エーッとっとっと・・・、

 「そのアクセントは九州のほうですよね。」

 「はい、俣野です。」

 アーリャリャ、これは又懐かしい。彼は大学時代後半から社会人になった最初の1年くらいの時に仲良くしてた友。社会人になってからの1年と言うのは、彼は僕よりも年下で、彼が卒業して高知から出て行く辺りまでつきあいがあったから。その後は僕が一度目の失業時に長崎に一人で帰った時に彼の家に行って会ったのが最後。その合間にほんの2〜3度?電話のやり取りがあっただろうか、それから数えてもかなりの久しぶりだ。

 その頃は僕も彼もギターを持って歌ったりしていて、二人で作った曲もある。僕のプライベートページの中に恥ずかしながら紹介している歌の中の「この幸せを」という歌は彼が曲を作って僕が歌詞をつけたもの。曲と歌詞があまりにもピッタリしていたので、後々、僕は曲も自分が作った気持ちになっていた。彼の下宿で、彼は自分が作ったメロディーを僕に歌って聞かせ、僕に詩をつけてくれと言って自分は寝てしまった。その間に僕は詩をつけ、我ながら曲と、そしてその頃の心境にピッタリの詩が書けたので彼を起こして歌を聞かせたように覚えている。その歌詞の内容は「非の打ちようのない完璧で幸せな出会い」というものなのだが、実際には僕も彼もちょうど同じ時期にドーンと落ち込むようなつらいことがいくつも重なったりして、歌詞の幸せそうな内容は「こんなことがあったらいいのに・・」という、反対方向にその頃の心境を反映したもの。

 「街へ出よう」、「この窓を開けて」なんてのもその時期の歌で、初めて歌を聞かせたのは俣野君だった。

 こうして書けば、それこそ「青春の光と影」的な時代に一番仲良くしていた友なのに、「分かります?」の一言にエーットというのはあんまりだが(一応言い訳だが口にはしなかったんだ・・)、そこらはお互いにサラッとしてるけど、どんなに離れていても、会えば最後に会ったのがつい昨日のことのように話が出来る男の友情のあり方ということで、分かって欲しいかな・・

 俣野君はあの頃と全然変わらない僕の様子をとても喜んでくれて、又高知にも来たいと言っていた。

 こういう友がいるということはホントに恵まれていることなのに、若い時はそういうことが分からなくて、筆不精や連絡不足で連絡がつかなくなってしまったりする。僕は今も若いから今後も気をつけないといけないな。

 今回はしっかり彼の電話番号を自分の携帯に覚えさせた。