2009年8月14日(金)

『南国土佐を・・・』

 毎週金曜日のU田さん。今月は僕の都合から水曜だったり金曜だったりで変則だが、今回は普通に金曜日。

 今年もU田さんは愛宕のよさこい審査会場でしばし踊りを見て来られたとのこと。U田さんは去年のよさこいで、この祭りは万人が平等に楽しめるいい祭りだと感じたととても評価されていた。きっと今年も見に行かれるんだろうと思っていたら、やはり・・。

 「よさこいが終わったらもう夏も終わりですねぇ。武政英策さんが『南国土佐を後にして』から後、この祭りの始まりに貢献して、それが自由な人を束縛しないいい形の祭りに発展しましたねぇ。」

 『南国土佐を後にして』という歌に関してU田さんには複雑な思いがある。

 もともとこの歌は高知出身者が多い「鯨部隊」の兵隊さんたちが戦地で歌っていたもので、戦後復員して来た彼らの口から誰からともなく町に広がりつつあったものを武政英策氏が採譜し形を整えた。整えると言っても、口伝えで広まった歌だから人によってところどころ節や歌詞がまちまちだったのが、楽譜にすることで一つの形に固まったという感じだろうか。

 後にその歌がペギー葉山の歌で大ヒットする前に武政氏は鈴木三重子さんという歌手で『南国土佐を後にして』をレコード化している。

 最初の頃はこの歌の作詞・作曲者は不明ということになっていたのだが、大ヒットしたがためにそれなりに形を整える必要があったのだろう、後になって、武政氏の作詞・作曲という扱いになった。

 しかし、そのことについて鯨部隊にいた人で意義を唱える人もいて、一時新聞紙上で議論が交わされたり、そのことについて本を出した人もいる。

 そして、U田さんも作詞・作曲者の扱いについては鯨部隊にいた人と同じ思い。U田さんのお姉さんがペギー葉山のファンクラブの会長さんで、ファンクラブの企画として『南国土佐を後にして』の私家版のシングルCDを作った時、U田さんはそういう経緯を印刷した紙をそのCDに添えたとのこと。

 今日の会話で分かったのだが、U田さんご自身が鯨部隊にいらしたのだ。

 生死と隣り合わせの戦地で故郷を思いながら歌われていた歌。その歌を口ずさんだ人の中には戦死された方もおられることだろう。その歌が後になって戦争の匂いのしない歌詞に変わり大ヒットした時、その作詞・作曲者が業界の仕組みのために一人の人のものとして扱われたことに元鯨部隊の人たちは何か言わないではいれなかったのだろう。

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 ところで、武政氏が『南国土佐を後にして』のヒットで成功(?)したから、よさこい祭り創造の際にプロジェクトに参加して活躍できたのかというと、それは違うようだ。

 よさこい祭りは『南国土佐を後にして』がヒットする何年も前に始まっていて、その際に武政氏はよさこい鳴子踊りの曲を作曲し、その中によさこい節を挿入している。『南国土佐を後にして』もよさこい節が挿入されていて、そのことが前後の部分を含めて深みのあるいい曲になっている。どちらも実は『よさこい節』の力に支えられているんだなぁ。(なんか評論家みたいになって来た(^^))

 武政氏は元々音楽的に実績のある方で、『南国土佐を後にして』を全国区に広めた一番の功労者だといってもいいし、同等の曲を作るかそれ以上の力もある方だったから、それでもいいじゃないかとも言えるのだが、それが国を離れた戦地の兵隊さんたちの間で歌われていたということに、どうしても複雑な思い残ってしまうのだろう。

 それほどヒットしないで幻の名曲というような位置づけになってたら良かったのかも知れない。

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 よさこいが終わると夏は終わりだ。