2009年10月27日(火)
「おくふじ新聞を」ご夫婦で発行されていたK松さん。
今日はご主人の依頼で新聞作成のお手伝いに行ったのだが、奥様は実は今月の初めに他界された。
葬儀が済み、少し落ち着いてからご主人は僕にも連絡を下さったが、その時はこの日記に書くことが出来なかった。
今日はそれから初めてK松さんのお宅に行く。
亡くなったとは言え、なぜかK松さんに久しぶりに会えるような感覚・・・。
K松さんはそういう人だった。いつくしみと懐かしさを人に感じさせる人。
自分が大変な状態なのに、人の心配ばかりで、お見舞いの電話を受けてるうちに相手の人の愚痴を聞く側になったり・・。
「おくふじ新聞」を発行するというのも、不治の病の自分がいなくなった後ご主人が孤独にならないようにとの思いから、ご主人とご主人のふるさとのおくふじの人たちの絆が出来れば・・と思いつかれたことなのだ。
ご主人は絵の才能と新聞を作るセンスがある。自分はパソコンに少しは慣れてるから、やり方を習えばそれを形に出来るだろうと思う。
そのお手伝いに僕が関わり、ご主人の画集を作り、その次には「おくふじ新聞」の発行も始めることが出来た。
「先生との出会いが今の私たちに幸せを運んでくれているような・・そんな感じがしております。」
最初の頃、K松さんはそんな風にメールを下さった。
幸せをもらったのは僕の方。自分のことより人の心配、そういう人と出会えたからこそ、どんな時もやけを起こさずに希望を失わずにやって行ける。K松さんに比べれば、僕の困っていることなど悩む価値もない。
「先生のCDズーッとお聞きしながら、主人と改めてびっくりしたり、感動したり不思議な思いの夜を過ごしています。来週の点滴の日から、気分良く病院で過ごせそうです。」
K松さんは僕の自作の歌を気に入って、闘病中、聞いていて下さった。ご主人がおっしゃるに、「癒しになるって言ってよく聞いてましたよ」。
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つらい。
だけど、K松さんのお宅に行けばK松さんに会える。
遺影のK松さんのまなざしは、亡くなった後も残された人たちを包み込むような温かいまなざしだった。ご本人が一番つらかっただろうに、こちらに力をくれるようなやさしい表情。闘病中のつらい時もこういうイメージだったのだ。ほんとに素晴らしい人だった。
おくふじ新聞作成のお手伝いをする時、僕は一読者として、家にそれが送られて来てから読みたいためになるべく中身を見ないようにしていたのだが、今回はどうしても目が行ってしまう。今回の記事はK松さんの奥さんのことで一面を使っている。
「いっぱいいっぱいありがとう。」そして、「ごめんネ。」
それがK松さんのご主人への最後の言葉だった。
奥さんが亡くなった月も気丈に新聞を作られるご主人。それも、K松さんの「新聞は出しつづけないといかんヨ」という言葉を受けてのことなのだ。
ご主人に送られて来たお悔やみの言葉はどなたも「自分のことより人のことを先に考える人で・・・」というもの。誰の目から見ても、そういう人だったんだと改めて思う。
素晴らしい人だった。
そして、K松さんはまだまだ、僕たちのそばで、心の中で生き続ける素晴らしい人だと思う。