2010年11月19日(金)

N高、玄関前の蘇鉄

 あぁ、そうだったんだなぁ。学校というところは見事な社会的資源だ。自分が高校生だった時には気が付く筈もなく、その価値が分からなかった。

 今日の午前中はTさんからの用件でN高校に行っていたのだが、選んだ道の加減でN高校の周りを1周回って校門の前に着くことになった。

 おう、なかなか広いなぁ。こんなに広いグランドがあるんだ。

 校門前でバイクのエンジンを切って案内板にあるバイク置き場までバイクを押して行くと、左手には体育館、右手には事務棟、教室の建物。初めて来るから、書いてることは正確じゃないだろうけど、なんというか立派な建物が並んでいるわけだ。

 この中に沢山の本、教材、機器、装置、そして先生たちがいて、未来を担う子供たちに提供されているのかと思うとこれはすごいことだと思う。

 自分の子供たちも小学校、中学校、高校を卒業し、その間には時々それぞれの学校にも行ったし、自分自身毎年ひと学期は短大に出入りしているのに、学校というところに何十年も行ったことが無かったようなこの感覚はなに?

 それはどうも、N高校の校門を入ったすぐのところにある蘇鉄(だと思う)がギッシリとかたまりで植わっている植栽のせい。僕が通った(古い話だけど)長崎県の諫早高校にもよく似た植栽が玄関から入ったすぐの場所にあった。それを見て高校時代の自分の感覚が蘇ったんだろうなぁ。

 子供の学校に行く時は親として、短大に行く時は僕が非常勤講師だなんてなにかの間違いだよな・・の思いで行っていて、学生時代の感覚では学校というところを見ていない。でも、今日はあの蘇鉄の植栽のおかげで半分年相応、半分学生みたいな目が入り混じる形で学校というところを見たわけだ。

 これだけの環境、時代の差こそあれ、それは自分が行った高校時代も似たようなものだったろうに、3年間それを充分に活かせないままだった。

 もっとも、高校時代は「ねばならぬ」ことが学校方針や先生たちからどっさりとあてがわれて、付いて行くのにやっとで、自分から何かを活かすというような発想は出て来る余裕が無かったのかも知れない。学校というのは沢山の生徒がいる集団社会だから、なんでも自由に振舞えるわけでもないし・・

 そういう意味では、自分で選び、自分で学び、自分で行動する自由さは大人になってからの方がはるかに多い。でも、その時には生活を背負い込んで、社会的資源も学校みたいにひとつのところに固まってあるのではなく、あちらこちらのものをちょっとずつ利用するという感じ。そういうことを経験した上で再び学校に戻れば学校というところはとんでもなく恵まれた環境だということが分かるに違いない。

 そういえば短大には、一度社会に出た後で思うところあって入学して来る年長さんたちがいる。その人たちは自分の思いでもう一度学生になっている分、学習する熱意とか、目的のある人間の安定感がそこはかとなく感じられて、教室の雰囲気もストレートで来た若者だけの教室とは少し違って見える。

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 僕ももう一度学生に戻りたいかなぁ・・。

 恵まれた環境、学食も安いだろうし・・