義父、逝く

2012年6月 6日(水)

 朝5時過ぎ、義父危篤の連絡が入り、実子である妻とその弟がかけつける。

 8時半、病院の先生が、親族には今の内に連絡を取って会わせておいた方がいいとおっしゃっている旨の連絡。

 三女を連れて病院へかけつける。義父はすでに昨日の夜から意識がなく、酸素マスクの中で呼吸を続けている。心拍数は高く、血圧は低く、血中酸素は少ない。

 仕事に出ていた次女、四女もかけつけた。神戸にいる長女も高速バスで帰って来ようとしている。

 血圧が下がるたびに昇圧剤の供給量をあげ、皆がその数値と義父の様子を交互に見ながら、時々声をかける。

 夜、次女の家族も義父の顔を見に来た。10時前には神戸の長女も到着。

6月 7日(木)

 義母、女房、義弟、僕、長女の5人で義父の容体を見守る。

 深夜、誰もが疲労困憊の体。気が付くと座ったまましばし寝入っているということも。

 良い数値ではないが、それまで悪い方へと変化し続けていた諸々の数値が一定の値で安定した。

 2時半、一旦僕は帰ることにした。このままでは全員潰れてしまう。最期を看取るつもりで来ているのではなく、出来れば持ち直して欲しい。そんな気持ちも込めて、あえて一旦家に帰り、仕事の最低限のことを済まし、仮眠を取ろう。義父は息をし続け、生きようとしている。この戦いは長くなるかもしれない。もし逝ってしまうとしても、強がりの義父は自分が弱りに弱って息絶えるところをこれほどの多人数に見られたくないのではないか・・

 6時過ぎに女房と長女も一旦帰って来た。

 そして、7時40分、義父は長男である義弟が一人見守る中、息を引き取った。苦しむこともない、眠りにつくような静かな大往生だったという。

 享年86歳。

 2年前の2月に日赤のICUでいろんな機器につながれ、九分九厘無理だろうという中、彼はいつも自慢していた不死身ぶりを証明するかのように回復をとげ、一時は長男の運転で温泉に行ったり、食べたいものを食べに行ったこともあった。この2年間、女房と義弟はほとんど毎日のように義父の様子を見に行っていった。誰も見舞いが来ないお年寄りの患者さんが多い中、彼の病床には毎日必ず誰かが見舞いに来ていた。

 そういう期間があったから、突然のショックと言うよりは「お疲れさま、もう痛い思いはしなくていいんだね。」という思いが浮かんで来る。彼の顔は今にも起きてものを言いそうなほどきれいな顔をしている。最後まで、カッコイイ人だった。

 谷病院の仕事は連絡を取って休ませてもらった。

 病院から葬祭会館へ。通夜、葬式の段取り、お坊さんを呼んでの枕経の読経、納棺。いろんな決定は喪主である義母と、実子である女房と義弟がそれに付き添う形で運ばれた。

6月 8日(金)

 国鉄を退職して既に30年近い義父。死亡広告も出さなかったので、通夜は義父を知る親戚や身近な人たちの間で営まれた。

 今まで聞いた話では、若い頃は好き放題の豪快な生き方で随分と波乱万丈だったのだが、集まった人の口からは、義父を温かく見送りたいというホントに好かれてたんだと思わされる話ばかり。実際、僕が知る義父は、洋服や時計に何十万もかけるかと思えば100均で買って来たCDの安さを自慢するというような、子供っ気のある憎めない人だった。立派な字を書き、絵がうまく、いつも何かに興味を持っていて勉強し続けている人。孫やひ孫がかわいくてたまらなくて、うちの子もかわいがってもらった。毎年、正月には義父の家で正月料理と義父自慢の猪の肉のすき焼き、そして金箔入りの酒を遠慮なく大飲みして・・。

 義弟は今日の通夜で、長らく会えなくなっていた娘とも再会することが出来た。

 「オネエのところと又行き来できるようになったし、娘ともこうして会えたし、みんな親父のおかげよ。」

 子供にこれほど好かれて、最後まで感謝されて、やっぱりカッコイイ。

6月 9日(土)

 10時、葬儀開始。

 昨日の通夜に来てくれていた人たちのほとんどが今日も来て下さった。義理にしばられない温かいお見送り。

 11時、斎場へ。

 待ち時間の精進落としの昼食をはさんで、お骨を拾い、再び葬祭会館に戻り初七日を済まして、水曜に始まった義父の見送りは終わった。

 危篤の知らせを聞いてから一切を見届けているのに、まだ、いなくなった気がしない。

 しかし、一方で「いい生き方をしなくちゃ」という感慨も・・。

 いい生き方をしなくちゃ・・

 おじいちゃん、お疲れ様でした。あなたと会えて良かったです。