入院・手術・患者の視点から

2022年5月25日(月)
4月1日にとある整形クリニックで診察を受け、医大付属病院を紹介され、結果として今日が手術のための入院日。

指定難病認定の書類はギリギリに出来、術前のPCR検査の際に受け取りその足で高知市の保健所で処理を済ませた。間に合わなかったら難病指定の認定に当てはまらない月が出来、こちらは大きな負担になる。動きがうまく取れずに今か今かと待っていた身には予想外の遅さだった。患者側と医療側の感覚のギャップがちょっと心配。僕らのハラハラ感は病院側からしたらなんでもないよくある話に過ぎないのかも知れない。

それでもまぁ時は来た。

手術予定日は5月27日。今日・明日はそれまでの前準備と言ったところか。
僕の担当看護師は3人。みんな年齢が若い。入院・手術に関する説明や僕からの聞き取りが沢山あって1日目はすぐに終わった。

手術前の部屋には同室者が二人。
僕のすぐ右側には香川県出身の紳士。
「ここの手術はネ、あっという間ですよ。麻酔が始まって数を数えていて次に名前を呼ばれたらもう手術は済んでますから・・・」

オー、経験者のこの言葉は凄い安心感をくれる。

だが、夕方が来て空が暗くなり始めたらこの紳士に異変が起きた。窓際から外に出て高いところを右に行ったり左に行ったり。僕にはこの建物の構造が頭に入ってないから勘違いかとも思ったが明らかに様子がおかしい。飛び降りたいのか、死んじゃいたいのか、そうじゃなくても間違えて落ちてしまうかも知れない。とても挙動が怪しげなのだ。   
まさか自殺願望?極度の鬱?飛び降り癖?時々うずくまって泣き声が聞こえて来る。

職員は何してるんだ?

職員は男の子が一人窓際の同じ高さから見守ったり、下に降りては見上げるように見守っているだけで声をかける様子は一切ない。

「この人、死にたいけど死なない人なのかな?でもかなり危険だゾ」
このかた、昼間のまともな時に、自分はこの病院でどことどことどこを手術していて、今度はドコソコを手術してみないかと言われていると自慢げだったので、飛び降りて背骨を折るなんてこともあったのかも知れない。

ココ、落ちたとしたら何メートルぐらいあるの?警察は呼ばなくていいの?声掛けしなくていいの?彼を刺激しないように職員とコソコソと話そうとするが返事はほとんど返ってこない。

そのうち彼は窓の外で眠り込んだらしくおとなしくなった。夜明け近くまで眠れない1日目・・・。

5月26日(火)
午後13:30、シャワー。その足で1階にある理髪店に運ばれ、手術用にその周辺の髪をそる。今日もあの紳士は夜が来ると落ち着きがなくなり昨日のような状態。不思議なのはもう一人の同室者の方が、慣れているのか、動じない人なのか、この人もおかしい人なのかマイペースで夜中じゅう氷をシャゴシャゴ食べながら自分の用事をしている感じ。この人はこの人で常に水分を取っていないといけない様子。一体僕はどういう部屋に放り込まれたのだろう?なんかおかしくないか?ココ。

5月27日(水)午後、手術は例の紳士が言った通り麻酔に始まり、次に声をかけられた時には済んでいた。

長かったのはその後の方。またあの部屋だったのだ。つまりあそこは術後の集中治療室ってことなのか。体のアチコチに管がぶら下がったまま窓方向の右上、左上をのぞき見、時々は半寝半起き。明け方にはこちらもやけで勝手に声を掛けた。
「寒いから中に入ろうヨ!」
「エッ??」
彼は我に返ったように部屋の中に戻って来、職員がすぐに危険な場所に出られないようにカーテンの吊り方を変えてことは落ち着いた。

もう慣れっこってこと?僕にはそういう説明は一切無かったぞ。

そもそも、何かあったら最終的には俺がやる!!みたいな事務長とか、病棟責任者とかここにはいないのか??

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ここから続く日々は何日目とか日付などがかなりあやしい。なぜなら僕自体が「せん妄」ってやつにやられたから。

記憶がはっきりしているのは一般病棟に移った1日目、それと何日かあとの職員と話ができるようになってから。

一般病棟は3階にあった。同室の患者さんは今度こそほんとに紳士で、常に痛い痛いと呻いていても、職員から明日になれば〇〇先生が処置してくれるからとりあえず今はこうしておきましょうねと言われると「ありがとう、すみません」を忘れないしゃべり方で素直に受け入れる方。それでもどうしようもなく痛い時があってその時は思わず痛い痛いと呻くが処置の方法や医者の対応の遅さに腹を立てるような発言は一切ない立派な方だった。なんでも自分自身が窪川の方のお医者さんらしく、看護師の処置方法や自分の今の状態がわかっていらっしゃるご様子だった。そして、看護師もお医者さんもナースコールで呼ばれなくても夜中に数度はこの先生のご様子を診るようにしていた。

なぜ、僕がこれほど人様の様子が分かるかというと別に聞き耳を立てていたわけではない。カーテンで仕切られているとは言え、先生と僕の距離は50cmから80cmくらいの至近距離にあったのだ。一言で言えば部屋が狭い。だから夜中に看護師が先生の様子を診に来るたびに僕も目がさめ、ついでにトイレについて行ってもらうという状況だった。毎日先生の痛みが少なくなりますようにと祈る癖がついていたので僕には迷惑ではなかったがこの夜中の睡眠の浅さが僕の体に影響を与えていたのも否めない事実。

そして、この病棟にも別のタイプのへんな患者さんがいた。夜中に大きな声でクレームを入れてるかと思うと、今度は超上機嫌で大声で話している。そういうタイプの患者さんが二組ほどいたんじゃないかと思う。同室じゃないのがありがたかったが、僕の手術をしたY来先生の「もういい加減にしなさい」という怒鳴り声も聞こえてきた。

一般病棟に入った2日目に僕の頭に異変が起きた。今あきらめたらきっと死ぬんだろうなと思わせるほどの頭痛。初日からの体験で、もうこの病棟の医療者に助けを求めるという発想は微塵も沸いてこない。若い医療者たちはよくぞここまでへりくだれるものと思わせるくらい「すみません、ごめんなさい」を惜しげなく使い、それでもやるべきことはちゃんとやって実に健気なのだが、目的を達したあとの立ち去り方が異常に早く、弱ってる人間が「エーっと、あのう・・」なんてたどたどしいことを言ってるともうそこにはいなくなっている。それくらい忙しいのか、病棟の方針でなるべく無責任な約束をしないようにしてるのか・・・?

イカン、死神にはめられたか・・。今ふっと力を抜いたら死んじゃうな。人間一度は必ず死ぬんだからそれもいいのかも。

でも、治療法がろくに進歩していなかった時代でさえ、おふくろはリウマチの痛みに耐えながら72歳まで生きた。親父は母を看取ったあとしばらくの期間があって82まで。それを僕は67歳?

まだ家族にもありがとうごめんなさいをちゃんと言えてない。今諦めて死ぬのか?

胸の中で家族の名前を呼びながら「ありがとう」「ごめん」を繰り返し続けた。

勝ち抜いたとも負けなかったとも言わない。そんな思いを胸に抱きながらきっと気を失ったんだと思う。朝になると僕はまだ生きていた。

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せん妄なるものに気がついたのはリハビリを始めようとしたときのリハビリの専門家だったというのが僕の記憶。言葉・記憶が怪しくなっている。 
「宮城さん、今は何年何月何日ですか?」詰問に近い勢いで問い詰めて来る。その聞き方じゃわかることもわからなくなるだろう・・と思いつつ答えようとするが答えが出て来ない。
「宮城さん、じゃあこの紙に〇〇って書いてみてください。
象形文字のような、組み合わせ文字のような実にヘンな漢字がそこにあった。
リハの人はもう一人のお仲間を呼びよせて僕の様子を見せ「典型的な〇〇の症状に出くわした」と言っている。どこか半分は医療的な興味から自慢げにも聞こえた。。

そこからは別の苦しみが始まる。

車いすに乗せられナースステーションに置いてけぼり状態。向こうとしては見守りなんだろうけど僕からしたら「さらしもの状態」。それがイヤなのでしっかりした表情でいようとすると眠気と疲れでウトウトしそれに気がついて直そうとするとひどい頭痛が始まる。時々目があうベテラン看護師の視線は見守りというより観察でその視線の冷たいこと。オレ、人間扱いされてないな。やけくその言葉が口をついて出た。

「なんでぇ、こりゃあ?人の痛みなんかちっとも考えてないやり方をして!気分が悪い!!院長を呼んで来い。」

これもせん妄の一症状「怒りっぽい」に捉えられただろうけど、これはせん妄じゃなくても僕が怒りやすい一番のパターンなのだ。

これは強気でいないといけないぞ。人の優しさなんかあてにしている場合じゃない。

その日の夜と翌朝、ティッシュの箱に家族の名前を書きそれを何度も読み返し、書き続ける。最初のうちは名前に苗字をくっつけるかつけないかで名前がぐちゃぐちゃになったが約1日でその状態から抜け出した。

さぁ、次はいつまでもここにいないための努力をしなくては!!お隣の重症患者の先生を診ている様子が音や会話で伝わって来て、医療に関しては看護師もお医者さんもとても熱心で思いやりがあることも見直し始めている。ただ医療者同士の横の連絡・伝達に関しては僕とは相性が悪すぎる。言ったことが伝わらない。伝わった場合にも僕の疑問に答える約束をしながら放ったらかしになる。おまけに僕はせん妄が出てしまった問題児扱いの人間で、トイレもなにもかもが付き添い。毎日何もせずにただ過ごすなんて一番僕の心に悪いあり方だ。それに比べて体がダメなままならダメなように仕事の形態を変えようと方法を考え出すと気持ちがわくわくする。さっさと家に帰った方がましだ。今から思えばただ家族に説明して拘束の可能性を認めさせるより僕本人に僕の今の状態ってやつを説明してくれれば良かった。

医療者同士の「報・連・相」、本人に対してのインフォームドコンセント不足と言ったところか。

下の人に言っても伝わったのか放りっぱなしなのかノラリクラリなのでこういうことは医師にしっかり伝えないといけない。
「先生、いつまでもこのままだと僕、そのうちに自分でタクシーを呼んで家に帰りますヨ。」
こういう発言がまた「せん妄がまだ収まっていない」という判定になるんだろうなぁ。拘束の格好の理由にもなる。
気が付いたら拘束帯で車いすにがっちり固められていた時もあった。

後日家族を呼び、先生としてはこのまま退院というのは危険すぎるので転院という形で調整を取ってみると言ってくださった。そういうことならとりあえず今後はおとなしくしていよう。先生や若い看護師にも敬意を持って過ごそう。

医療現場の若者たちは実によく頑張っている。自分たちがお世話になった方がこの病棟で最期を迎えることになり、泣きそうになり乍ら気をしっかり持っていようとする若い看護師の姿、これは僕がナースステーションで怒鳴り声をあげた翌日同じ場所で垣間見た。みんなの神経がその患者さんに集まりまた僕が置いてけぼりになりそうになったが、その時は自分から質問してこの場を離れていいか確かめお祈りの気持ちを残してその場を離れた。漢字がどうの言葉がどうのはともかく、僕の心の方はもういつもどおりだ。
僕が要注意患者扱いになって、トイレのたびに同行してもらうことになった時も「いいから絶対声をかけてくださいネ」と笑って付き添ってくれる。お隣の先生を巡回して来るそのたびに僕も目が覚めてたからその回数は普通以上。おまけに最後の追い込みのように転院前の10日ぐらいは歩行器での歩行練習の意味もあって僕も遠慮しないことにしたので尿瓶で済ますことができる時もトイレ同行のお世話になった。そのトイレの帰りに「宮城さんのパソコンのお仕事ってどんなことしてるんですか?」と聞いてくれる子も。

「ホームページを作ったり修理をしたり、できることはなんでも仕事なんだけど、そう言えば高知県看護協会の初めてのホームページを作ったのは僕なんだヨ。」
「エーッ?そうなんですか?」
「ホームページを作ってない県があと2県しかないっていうときに頼まれてネ。今の形、掲載内容が固まったところでデザイン重視の別の業者さんに移行したんだけど。」

リハビリの人も転院前にこれまでの遅れを取り戻すかのように僕を歩行器で歩かせる。僕は僕でちょっとでもよくなりたくて自主練でベッドサイドでやってもかまわないと許可を得たスクワットを毎日回数を増やしながらやっていたので数値上は随分と回復方向の数字になっていただろう。でも左足をもっと使ってかかとから着地するようにという指導以外は距離を稼ぐために歩くだけの感じもあり次のところもこの調子なら早めに退院してしまおう。手術をしたY来先生も「自信が付いたら2週間ぐらいで退院してもいいですから」と言っていた。自分の病院を出る分にはいったん転院という形をとりたいが、そのあとは早めの退院OKというのも、なにか紹介制度の大人の事情があってのことなのかな??

とにかくこことはサヨナラだ。いろいろありすぎて僕は人まみれで汚れすり減った感覚がぬぐい切れない。

Bye-Bye!南国の大病院。

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幸せの青い鳥はすぐ近くにいた・・生協病院
6月14日、口細山の生協病院に転院した。口細山は横内のちょっと北側にある僕にとっては地元の病院だ。

ここでも入院前のお約束のレントゲン撮影や心電図など検査ごとからことが始まった。そのちょっとの時間に職員のみなさんの様子、物言いに安心感を覚える。
なにより、胸につけたバッジの戦争反対的なスローガン。
今一番声に出さないといけないことじゃないか。人ひとりの歩行困難でもこれほど直そう直そうとしてくれてるのに、世界のどこかでは問題のない肉体を殺したり壊してしまう戦争に力を注いでいる。
アッ、ここは儲け主義でも実績の件数稼ぎの病院でもない。
クリニック受診の際からなぜここの存在に気が付かなかったのだろう?

病棟に入ってしまうとコロナのせいでいっさい外部との面会が出来なくなるのは一緒だが、見事なくらい今日の今日、画面が割れて使えなかったわがスマホは機種変更で生き返った。僕のスマホは南国の大病院に入院したその日に画面が割れてしまい。僕はこの1か月間、場所的にも情報面でも天涯孤独に近かった。病院が患者の家族からサインや押印が必要な時や今後の方針を決める時(これは僕が食い下がったので特別かも)などは合わせてくれるが、僕のスマホで困っているというライフライン的な困りごとはことごとく面会を断られた。この件、会って説明しないと前に進まないんだよ!!
それにひと月かかり、くしくも転院先でやっとスマホが使えるようになった。

部屋が広い。「とんでもなく」とうわけではないが一人当たりの面積におおらかさがある。

そしてなによりもリハビリの患者さんとの関わり方。向こうでは一切なかったことなのだが、まず病室のベッドの高さやそのそばにおく夜用のポータブルトイレの高さまできれいに決めてくれる。ふかふかなベッドゆえに逆にどうにも動けなかった先の病院ではそういうことが一切無かった。

リハビリの回数。これは大学病院とこちらの病院の役割分担的な理由もあるらしいのだが、向こうではリハビリは週に2回。おまけに僕はなんでも付き添い付きのせん妄の経過観察的な期間があったのでほとんど何も出来ていない。転院前に数字稼ぎでただただ歩かされた感があって、歩行器の足と自分の足がぶつかって不安なことこの上なく、その解消法がかかとから着地ということだった。これもちょっと歩くだけで要領だけではどうしようもなくくたくたになり先が不安になった。こんなことでまた歩けるようになるのか??

こちらでは歩行器の車と足がぶつかるのがリハビリ開始日(転院翌日)の数十分で解消した。まず僕の体格からしたらこれくらいだろうという歩行器選びから始まり、説明も「かかとから」だけではなく歩行器とおなかの間におにぎり一つくらいの隙間をつくり、もっと歩行器の中に入り込んでと、具体的なのだ。
もしこちらの病院がアチラと同じようだったらそれこそ2週間くらいで退院するつもりだったが、ここでなら退院後の生活をもっとよくするノウハウももらえそうだ。

これなら少々期間が伸びてもやる価値がある。

あとはリハの担当のお二人のいうことを素直に聞いてやるだけで随分とよくなりそうな気がする。

あちらでは1日中なり続けていた大音量のナースコールも静か。その原因が自分の寝返りをセンサーが感じ取ってのことだったり、自分のトイレ付き添い依頼だったりするともう落ち着くひまがなかった。こちらでもよく鳴ってるんだろうけど、それが病棟中に響き渡ることは無い。

これだけで、僕にはここが天国の感。

にしても、留守にしっぱなしの仕事部屋が恋しいのも正直なところだ。